==1990年7月30日== 通学路        -212-

 =加州毎日新聞(California Daily News)は1931年から1992年までロサンジェルスで発行された日系新聞です=

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  小学校の初めの三年間は佐賀市内で通った。鍋島家の居城であった佐賀城の石垣の中に明治になって建てられた赤松小学校が、人生最初の“母校”となった。
  家族が住んでいた県の官舎から学校までは、子供の脚で歩いて、十五分から二十分ほどかかったと思う。城址を遠く近く囲むように掘られているお濠の側の道を、脱穀したコメの俵を山積みにした馬車が、トラックに邪魔者扱いされるわけでもなく、のんびりと精米所向かっていた時代だ。時間を気にした行きはともかく、帰りは道そのものが遊び道具となっていた。
  グーでは何歩、チョキでは何歩などと決め、ジャンケンで負けた者に、たいして重くもないランドセルを持たせたり、自分を背負わせたりする道は、なかなか先には進まなかった。
  昔の高等師範学校、当時の佐賀大学教育学部の煉瓦塀は、その上をすばやく歩いて見せることで、自分のバランス感覚と多少の勇気を仲間に誇示する場所になっていたし、たいがいは手入れが悪くて、草が長く伸びていたグランドはバッタを捕まえ、トンボを追う楽しみを与えてくれた。
  まだ舗装がされていなかった道は大小の窪みだらけで、雨の日は、走る自動車が飛ばす泥しぶきを傘でかわしながら歩いた。かわし損ねて、顔を泥水だらけにした友人を笑うその顔にまたしぶきが飛んできたりもした。
  夏が近づくと、ときどき寄り道をして、佐賀高校のグランドに立ち寄り、甲子園を目指して次第に熱が入る野球部の練習を見た。投げる球、打つ球の速度と選手たちのかけ声の厳しさに圧倒されながら、友達同士で「ことしは見込みがありそうだ」などと生意気な批評を交し合った。
  西堀端に立ち並ぶ大きな楠の下に仲間数人が集まって、堀に浮かぶ水鳥、カイツブリを目がけて小石を投げることもあった。精一杯に悪童顔をつくって「キャーツグロの背中に火がついた。ブルッと沈めばもう消えた」と皆で叫び、笑いくずれた。

  通学途中で、後ろから走ってきた黒塗りの乗用車の窓からビラが撒かれたことがあった。車の中の一人が手に持ったベルを鳴らしながら「号外。号外」と叫んでいた。拾った一枚の紙には「スターリン」の文字があった。うすうすながら、世界の大物が死んだことが分かった。一九五三年三月。小学二年生の学年末が近いころのことだった。

  佐賀市内の真ん中、北堀端沿いに「貫通道路」と呼ばれる道ができたのは昭和の初めだったと聞いた記憶がある。当時は「こがん広か道ば造って、どがんすっとかの」と市民が驚くほどの道幅の広さだったというが、いまは、国道34号線の別名も、市の北の郊外を走るバイパスに奪われて、旧道の趣きの方が深い生活道路となっている。

  一九五〇年に朝鮮半島で戦争が勃発すると、その貫通道路の表情がときおり変わった。軍隊といえば「進駐軍」のジープぐらいしか見かけなかったこの道路を東から西へ、米軍の戦車部隊、重砲部隊が移動するのだった。福岡の板付飛行場まで空輸された武器と兵隊が佐世保や長崎に向かっているのだということだった。
  部隊が通り過ぎたあとの貫通道路の舗装の上に戦車のキャタピラーの跡が残っていた。

  通学途中で号外を拾った小学生の頭の中をそんな光景がよぎったように思う。
  一九五三年は、吉田首相が国会で「バカヤロー」と暴言を吐き、いわゆる<バカヤロー解散>があった年だ。三月には、中国からの引き揚げが始まり、七月には、ミス・ユニバースで伊藤絹子が三位に入賞し、朝鮮半島では休戦協定が調印されている。八月には、電電公社が<赤電話>の設置を開始し、十二月には奄美群島が日本に復帰している。
  通学路の周りにも“戦後”がまだ色濃く残っている時代だった。