==1990年8月20日==  コメと大嘗祭     -217-

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  新たに即位した天皇がその年の新米を神とともに食べる祭祀を大嘗祭と呼ぶそうだ。宮中で毎年十一月二十三日に行われている新嘗祭を大掛かりにしたもので、一代一度、皇室で最も重要な行事とされている。
  ただ、現行憲法の下に制定されている<皇室典範>には「皇位の継承があったとき即位の礼を行う」とだけ記されていて、大嘗祭を行うとは規定されていない。この事実は、現在の政治家の恣意的判断はどうであれ、政治と宗教の分離を原則とする現憲法下では国の儀礼として大嘗祭を行うことはできないとの判断が<典範>制定時にあったことを示している。

  ガット(関税貿易一般協定)の多国間交渉(ウルグアイ・ラウンド)をにらんで日本と米国、欧州共同体(EC)が農業問題で厳しい協議をつづけている。米国とECが特に農業補助金の是非をめぐってかけひきを行うか一方で、日米は日本のコメの自由化問題で議論を闘わせている。
  先にアイルランドで開かれた五か国農相会議でも、日本のコメ問題が協議され、米国のヤイター農務長官は日本のコメ完全自給政策に反対、とりあえず関税の対象とすべきだと主張した。同長官は初年度七〇〇%の関税を承認する意向を示している。

  コメ自由化問題で自民党内が騒がしくなってきた。<部分自由化>を容認する意見が竹下元首相や山口敏夫氏あたりからも出始め、コメ完全自給論を聖域化して日米交渉の対象からも外してしまおうという勢力を少なからず動揺させているということだ。

  自民党がコメ完全自給論に固執するのは<票>のためにほかならない。
  『朝日新聞』(一日)の<経済地球儀>で船橋洋一編集員は「コメ市場の閉鎖性は、農協を圧力団体とする農村、それも最も競争力の弱いコメ農家の利益を過度に選挙・政治過程に注入させることで、都市住民の関心や国際感覚を正当に反映するのを妨げてきた」と述べている。政治評論家の松崎哲久氏はこれを「農村過重代表性」と呼んでいるそうだ。

  首相時代に<世界のナカソネ><ロン‐ヤス関係のナカソネ>として自分の国際性の売り込みに懸命だった中曽根元首相が、一方では、<臣・中曽根康弘>として尊王思想に凝り固まっていたことはよく知られている。
  船橋編集員によると、その元首相が最近、自民党内のコメをめぐる騒ぎについて「どんな形で決着するにしても、大嘗祭まではダメだ。もう少し厳かにこの(コメ)問題を考えなくてはいかん」と語っている。
  この発言は、自ら<臣>と名乗る人物にふさわしいものだとといえる一方、この政治家がどのぐらい国際性と憲法感覚を欠いているかも同時によく証明しているといえる。日米間の最重要課題の一つであるコメ問題を早期解決し、両国間に安定した協力関係を築くことよりも、憲法上、国の行事とすることができない大嘗祭を優先して考えるべきだと主張しているからだ。
  自民党内のもう一つの、そして思いのほか根が深い<コメ聖域論>だ。

  船橋編集委員は同じ記事の中で、十九世紀の英国の小麦輸入自由化を例にとり、「日本も(コメ)自由化の過程で、広範な都市住民、競争力のある農民の発言力基盤に、自由で開かれた国際貿易システムの支柱になることができる」と述べている。

  選挙の際のうたい文句としてだけでなく、国民全体に対する<責任政党>であるとの自覚が本当にあるのなら、自民党が選択する方向は自ずから決まってくるはずだ。

==1990年8月14日== 中東の軍事大国     -216-

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 ・8月2日 戦車三百五十台を中心としたイラク軍が夜明け前、突如クウェートに侵攻、首長の宮殿や政府建物などを占拠した。直後にフセインイラク大統領は「クウェート政府は打倒された」と発表した。ブッシュ米大統領イラク軍のクウェートからの即時撤退を要求し、「米国はあらゆる対抗手段を検討している」と述べた。

  ・8月3日 米国政府はイラク軍のクウェート侵攻を「あからさまな侵略」と非難、米国内のイラク政府資産をすべて凍結し、イラクからの輸入のほとんどを禁止した。ブッシュ大統領イラクを国際的に孤立させるよう訴えた。イラク軍はクウェート軍と交戦する一方、サウジアラビアとの国境油田地帯に集結した。イラク軍の侵攻直後にサウジアラビアに逃れていたクウェートのジャビル首長はラジオ放送で、自国の奪回宣言を行った。緊急米ソ外相会談が行われ、イラクへの武器輸出を停止するよう全世界に求めた。イラクは二日以内にクウェートから撤退するとの声明を出す一方、サウジとの国境への兵力増強をつづけた。

  ・8月4日 クウェート・ラジオ放送は、閣僚九人からなる暫定政府の樹立を伝えた。これに対し、国外のクウェート政府関係者は「九人はすべてイラク人だ」と反発した。欧州共同体(EC)がイラククウェートからの石油の全面輸入禁止を決定し、侵攻に対する制裁措置として、イラク政府への武器や軍需物資の輸出を停止、EC各国内のイラク資産の凍結し、さらに貿易・軍事取り決めの効力停止を決め、クウェート資産を保護すると発表した。

  ・8月5日 撤退すると公言していた「二日後」が来ても、イラク軍はクウェート占領をつづけた。ブッシュ大統領はチェイニー国防長官をサウジアラビアに送り、イラク軍によるサウジ攻撃に備え、米軍のサウジ派遣を承認するよう求めさせた。

  ・8月6日 国連安全保障理事会イラクイラク占領下のクウェートに対する財政援助と貿易のボイコットを決定した。米英二か国が、国連の経済制裁決議を確実に実行するためにイラクに対する国際的封鎖活動を行う用意があると発表した。チェイニー国防長官がサウジのファド国王と会談、防衛戦術を協議した。米空母<インディペンデンス><アイゼンハウワー>が中東に到着、イラクを取り巻く米軍艦船の数が三十四隻となった。

  ・8月7日 第82空挺師団などの兵員のサウジへの派遣をブッシュ大統領が命令した。自国領内を走るイラク油送管の封鎖をトルコ政府が決定、イラク石油の東地中海からの積み出しを停止させた。サウジが石油増産を約束し、高騰していた石油価格が低下した。

  ・8月8日 ブッシュ大統領が午前、テレビ演説を行い、サウジへの派兵を正式に発表、防衛が目的であることを強調する一方、イラクフセイン大統領に対し、クウェートからの即時撤退と正統政府の回復を求めた。これに対しイラクは、イラククウェートの国家統合を宣言した。

  ・8月9日 英国が戦闘機部隊をサウジに派遣した。

  ・8月10日 アラブ首脳会議が二十年ぶりに開かれ、イラクの侵攻を非難、クウェートからの即時撤退を求め、サウジへアラブ合同軍を派遣することなどを賛成多数で決めた。イラクリビアパレスチナ解放機構(PLO)は反対、ヨルダンが態度を保留した。

  ・8月12日 食糧消費を半分に抑えるなどの「耐乏生活」を国民に求める声明をフセイン大統領が発表した。

  イラクの一人当たりの国民総生産は一九八八年、わずかに千九百五十ドルだ(CIA推定)。これに対しクウェートは同年、一万三千六百八十ドル、およそ七倍だった。長期にわたる対イラン戦争を戦ったイラクの<国防費>は国民総生産の四二%にも達していた(一九八四年)。表向きの大義名分が何であれ、豊かな国クウェートへの侵攻の動機の一つが“カネのなる木を取り込む”ためだったことは明らかなようだ。

==1990年8月8日== 対イラク制裁     -215-

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  五日、専用ヘリコプターでキャンプ・デイビッドからホワイトハウスに戻ったブッシュ大統領は、待ち構えていた記者団の質問に答え、クウェートに武力侵攻したイラクへの制裁措置について説明した。その中で注目されたのは、この問題について電話で話し合った各国指導者の二人目として、同大統領が海部首相の名を挙げたことだ。

  最初に挙げられたのはトルコ(のトルグド・オザル大統領)。理由は、イラクで産出される石油の半分以上がトルコ領内に敷設されたパイプラインを通して地中海に運ばれているからだ。イラクの外貨収入はほとんどが石油輸出によるものであるため、仮に米・欧軍がペルシャ湾を封鎖、イラク石油の輸出を阻止した場合、トルコ領内のパイプラインがイラクの最後の“生命線”となることは明らかだ。
  対イラク制裁はまず、対イラク貿易の停止、実質的にはイラクからの石油輸入禁止措置として実現されることになる。制裁に加わらない国が多いなどの理由で効果が上がらないときは、次に、石油輸送路を封鎖することが考えられる。トルコ領内のパイプラインの閉鎖は制裁効果を保つための最も重要な手段の一つとなるわけだ。
  ブッシュ大統領は、パイプラインを閉じるようにとの直接の圧力はオザル大統領にかけていないもようだが、その可能性が打診されたことは間違いないと思われる。

  日本政府は五日、イラク自体とイラクが占領したクウェートからの石油輸入を全面的に禁止した。イラク政府への経済援助も停止することを決めた。六日の『ウォールストリート・ジャーナル』は日本のこの決定を「重たい経済的な賭け」と呼んでいる。この二か国からの輸入量が日本の全石油輸入の一二%に及んでいるため、国内の石油供給に間もなく大きな支障が出るだろうということだけではなく、貿易保険つき商業債券四千三百億円を含めて七千億円(四十六億七千万ドル)に達している対イラク貸付金が焦げつく恐れがあるからだ。
  電話で対応を協議した各国首脳の二番目にブッシュ大統領が海部首相の名を挙げたのは、そうした日本の状況に対する配慮があったためだと思われる。

  『時事通信』によると、海部首相との四日(日本時間)の電話会談でブッシュ大統領は「イラクの行動は許されてはならず、主要国は協調的行動をもって対処することが望ましい」と述べ、日本政府が対イラク経済制裁を行なうよう正式に要請したという。海部首相は「西側諸国が取りつつある措置と同じ視点に立って、可能な手立てをこうずる考えだ」と回答している。

  日本政府は当初、六日か七日に出される国連安全保障理事会の制裁決議を見たあとで日本の対応を決定する方針だったという。だが、ブッシュ大統領の電話を受けて海部首相は「日米協調行動の方が大事」と判断、ただちに制裁措置をとることを決めた。同通信は「日本の取った措置は非常に重要で、世界全体に良いシグナルとなろう」と同大統領が述べたと伝え、「最大級の表現で首相を持ち上げた」と評している。

  経営コンサルタントで評論家の大前研一氏が積極的に<コメ市場開放論>を提唱している。日本の安全保障のためにコメの完全自給は欠かせないとする従来の論に反対し、産業活動の基盤を支える石油を一〇〇%外国に依存している日本の実態を考えれば、コメの分野では譲歩して、石油確保などで日米協調行動をとる方が安全保障戦略としては優れているという論旨だ。
  日本政府の今回の対イラク制裁が、将来の石油安定確保のために実施されることは間違いない。大前氏らの<コメ市場開放論>が現実味をもって受け取られる状況となってきたようだ。

==1990年8月6日== 西側からの援助    -214-

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  ソ連の国家統計委員会がことし前半の同国経済に関する統計を発表した。ゴルバチョフ大統領の必死の努力にもかかわらず、経済危機が深刻化していることがこの統計で改めて明らかになったようだ。
  昨年前半との比較で、国民総生産(GNP)は一%の低下。労働生産性も一・五%下がった。また、国民所得も二%小さくなったと報告されている。

  『ロサンジェルス・タイムズ』紙(七月三十日)は、ソ連の国営『タス通信』が“ぶっきらぼうに”「経済回復は見られない。国家経済の将来はますます危機的状況となっている」と伝えていると報じている。それによると、ソ連の失業者数は全労働人口一億六千四百万人のうちの八百万人。物価上昇率は公式には五%、実際には一五%にものぼっていると見られている。そうした状況の中、国庫歳入は計画を二〇%も下回り、財政赤字は一億三百億ドルの当初見積もりを大きく超えて、ますます膨らんでいるという。輸入の急増で、貿易赤字も二・五倍になっている。

  現状を説明して国家統計委員会は「労働者は生産よりも稼ぎの方が多い暮らしをしているものの、その結果として、食料をはじめとする生活必需品を高く買っている」と述べている。食料品の値上がりは、例えばポテトが一〇%、野菜が九%に及んでいる。全体的な物不足が進む中で、基本的生活物資の値段は一四%も上昇している。

  『タイムズ』はさらに、統計に表れた数字以上にゴルバチョフ大統領を傷つけるものがあると指摘している。国民の我慢が限界に近づいていることと、社会的な不満がますます大きくなっていることだ。「ソ連が必要としているのはゴルバチョフ大統領が目指す市場経済化ではなく、経済のより良い計画・管理だ」とする保守派からの攻撃も強まっているという。
  経済立て直しに失敗すれば、ゴルバチョフ大統領への政治的支持が弱まることは明らかで、しかも、改革の成果をあげるために残された時間はもうほとんどない状態だ。

  ソ連の経済学者の一人は「食料品などの消費物資の不足は“社会的に危険”である」とし、ゴルバチョフ大統領に対して、外国の資金援助を受けても消費物資を緊急輸入するべきだと提言しているそうだ。また、他の一人は、現内閣はすでに支持を失っているとの考えを示し、経済改革努力に勢いを回復したいなら、新内閣で新戦術を打ち立てる必要があると訴えているという。
  その学者たちに対してゴルバチョフ大統領は「一部の国とは立場も違い、関係も複雑であるが、財政面を含め、西側からの援助を求めるしかない」との考えを示しているそうだ。

  ソ連政府は七月二十九日、米国政府に対し、米国からの穀物輸入に際して大規模な信用供与を受けたいとの申し入れを行なっている。米国農務省によると、食料品購入に関するソ連の借り入れ希望額は総額二十億ドルに達している。

  世界を東西に分けていた壁の撤廃、東欧民主化、緊張緩和のきっかけとなったゴルバチョフ大統領の<ペレストロイカ>(変革)の運命が西側諸国からの援助の有無で決定される状況となっているようだ。

==1990年8月2日== 管理職員過剰    -213-

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 UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)のリチャード・ローズクランス教授(政治学)が「米国が繁栄をつづけたいのなら、われわれはビジネスや行政、教育の分野で数多くの根本的な改革を行なう必要がある」という意見を『ロサンジェルス・デイリーニュース』(七月二十三日)に寄せていた。
  「共産主義の凋落を祝う前に、経営学修士号を持つ米国人より日本の中学二年生の方が数学をよく知っているのはなぜか、米国はほんとうにソ連ほど凋落していないのかどうかをじっくりと考えてみるべきだ」と同教授は主張している。
  同教授が第一に憂えているのは「公共と民間、軍事と経済を問わず、われわれの組織があまりにも多くの管理職員を抱えている」事実だ。「職分が極度に専門化したことで、組織の本部は人員過剰となり、各種委員会が増殖する割には仕事が片づかない。指導的な米国企業は、単一の頭脳からではなく、一連の神経節からの(ばらばらの)指令で動かされているようなものだ」という。

  世界最大の自動車メーカーである<ジェネラル・モータース>(GM)では、従業員の七七・五%までがサラリー制で働くホワイトカラーで、第一線で生産に従事して賃金を得ているブルーカラーは二二・五%にすぎない。ホワイトカラーの比率は<モービル石油>で六一・五%、<ジェネラル・エレクトリック>で六〇%、化学製品の<デュポン>で五七・一%に達している。
  典型的な日本企業のホワイトカラー比率は米国の六分の一程度だそうだ。

  このような“官僚化”が進んでいるのはビジネスの世界だけではない。軍隊や学校組織でも同様だ。
  ベトナム戦争では、前線で戦う兵隊六万人を五十万人の後方組織が支援した。
  ロサンジェルス学校区では、実際に教室で生徒に教える教師の割合は五〇・六%にまで小さくなっている。ニューヨークでは四六・三%、デンバーにいたってはわずかに二四%でしかない。
  ローズクランス教授は「どの分野を見ても、軍曹や中尉よりも大尉(大佐)が多すぎて、米国の生産性を下げている」と嘆いている。これから米国企業がやるべきことは①幅広い能力を持つ重役を数少なく雇う②第一線労働者にもある程度の管理能力を持たせる―だという。

  変革のための提言はまだある。ローズクランス教授は、企業の重役は長期的視野に立った経営を行なう必要があると力説する一方、最も重要な資産である“人間資本”に米国はもっと投資するべきだと訴えている。そのためには、大学、企業、政府が学校教育に力を注ぐことが必要だし、国民の貯蓄も欠かせない、という。

  二十四日の『ニューヨーク・タイムズ』に、同紙が十一日に掲載した“反日広告”に関する記事に対する次のような投書があった。
  投書の主は、かつて日本に住んでビジネスを行なったことがあるメリーランド州の男性二人だ。二人は、日本にいたあいだに「日米の文化の差に根ざした困難に出合ったことはほとんどなかった」と述べ、「常識を持ってビジネスに臨むことが求められただけだ」と証言している。
  米国内での日本車販売シェアが二八%に達したことについても二人は「日本人はわれわれのニーズを分析し、米国車に勝る自動車を持ち込んでいるのだから当然だ」と述べ、さらに、米自動車業界が反日広告で日本に関する否定的イメージを煽ろうとしても米国の品位を落とすだけだと明言、「米国は製品の質で競争するべきだ」と主張している。

  こうした声が米国産業界に届き、変革が始まるのはいつのことだろうか―。

==1990年7月30日== 通学路        -212-

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  小学校の初めの三年間は佐賀市内で通った。鍋島家の居城であった佐賀城の石垣の中に明治になって建てられた赤松小学校が、人生最初の“母校”となった。
  家族が住んでいた県の官舎から学校までは、子供の脚で歩いて、十五分から二十分ほどかかったと思う。城址を遠く近く囲むように掘られているお濠の側の道を、脱穀したコメの俵を山積みにした馬車が、トラックに邪魔者扱いされるわけでもなく、のんびりと精米所向かっていた時代だ。時間を気にした行きはともかく、帰りは道そのものが遊び道具となっていた。
  グーでは何歩、チョキでは何歩などと決め、ジャンケンで負けた者に、たいして重くもないランドセルを持たせたり、自分を背負わせたりする道は、なかなか先には進まなかった。
  昔の高等師範学校、当時の佐賀大学教育学部の煉瓦塀は、その上をすばやく歩いて見せることで、自分のバランス感覚と多少の勇気を仲間に誇示する場所になっていたし、たいがいは手入れが悪くて、草が長く伸びていたグランドはバッタを捕まえ、トンボを追う楽しみを与えてくれた。
  まだ舗装がされていなかった道は大小の窪みだらけで、雨の日は、走る自動車が飛ばす泥しぶきを傘でかわしながら歩いた。かわし損ねて、顔を泥水だらけにした友人を笑うその顔にまたしぶきが飛んできたりもした。
  夏が近づくと、ときどき寄り道をして、佐賀高校のグランドに立ち寄り、甲子園を目指して次第に熱が入る野球部の練習を見た。投げる球、打つ球の速度と選手たちのかけ声の厳しさに圧倒されながら、友達同士で「ことしは見込みがありそうだ」などと生意気な批評を交し合った。
  西堀端に立ち並ぶ大きな楠の下に仲間数人が集まって、堀に浮かぶ水鳥、カイツブリを目がけて小石を投げることもあった。精一杯に悪童顔をつくって「キャーツグロの背中に火がついた。ブルッと沈めばもう消えた」と皆で叫び、笑いくずれた。

  通学途中で、後ろから走ってきた黒塗りの乗用車の窓からビラが撒かれたことがあった。車の中の一人が手に持ったベルを鳴らしながら「号外。号外」と叫んでいた。拾った一枚の紙には「スターリン」の文字があった。うすうすながら、世界の大物が死んだことが分かった。一九五三年三月。小学二年生の学年末が近いころのことだった。

  佐賀市内の真ん中、北堀端沿いに「貫通道路」と呼ばれる道ができたのは昭和の初めだったと聞いた記憶がある。当時は「こがん広か道ば造って、どがんすっとかの」と市民が驚くほどの道幅の広さだったというが、いまは、国道34号線の別名も、市の北の郊外を走るバイパスに奪われて、旧道の趣きの方が深い生活道路となっている。

  一九五〇年に朝鮮半島で戦争が勃発すると、その貫通道路の表情がときおり変わった。軍隊といえば「進駐軍」のジープぐらいしか見かけなかったこの道路を東から西へ、米軍の戦車部隊、重砲部隊が移動するのだった。福岡の板付飛行場まで空輸された武器と兵隊が佐世保や長崎に向かっているのだということだった。
  部隊が通り過ぎたあとの貫通道路の舗装の上に戦車のキャタピラーの跡が残っていた。

  通学途中で号外を拾った小学生の頭の中をそんな光景がよぎったように思う。
  一九五三年は、吉田首相が国会で「バカヤロー」と暴言を吐き、いわゆる<バカヤロー解散>があった年だ。三月には、中国からの引き揚げが始まり、七月には、ミス・ユニバースで伊藤絹子が三位に入賞し、朝鮮半島では休戦協定が調印されている。八月には、電電公社が<赤電話>の設置を開始し、十二月には奄美群島が日本に復帰している。
  通学路の周りにも“戦後”がまだ色濃く残っている時代だった。

==1990年7月26日== 記者のデスク     -211-

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  「時代は変わった」と思う機会は案外少なくはない。交通通信手段の進歩に触れて時代の変化を感じることもあれば、病気の治療技術の向上が変化の証と感じることもあろう。
  このごろでは、米国の新聞に日本関係の記事が多いと驚き、改めて時代の移り変わりをそこに読み取る人もいるかもしれない。
  実際、今月初めにテキサス州ヒューストンで開かれた先進国首脳会議に出席した海部首相と日本代表の動きに関する報道もかなりの量に達していたように思う。「昔はこうじゃなかった」という年輩のジャーナリストの声が聞こえる気がする。

  「日本に四千万人の読者を持つ共同通信にさえホワイトハウスは記者用デスクを与えていない」という事実を報じたのは『ウォールストリート・ジャーナル』(五日)だ。同紙は「コスモポリタン(世界に開けている)として自らを誇っている都市(ワシントンDC)が日本のジャーナリストを二級市民扱いしている」と断じている。
  国債を発行する財務省でも日本人記者はデスクを持っていない。「日本は米国国債の三分の一を購入する国であるにもかかわらず」と同紙は言う。

  ワシントンを舞台に取材活動を行なっている日本人ジャーナリストは現在七十九人。ニューヨークには百二十九人が駐在している。この二つの都市のジャーナリスト数は西独が百二十六人、フランスが七十四人、英国が八十九人だから、外国人ジャーナリスト集団としては、日本は最大規模だ。十五年前の最大集団は英国と西独だった。日本のワシントン特派員数は現在の半分程度だったという。

  この記事を書いたカール・ジョンストン記者によると、「かつての日本人記者たちは、外国人特派員に共通して見られるように、米国の新聞記事を翻訳して満足していたものだった」。だが、「いまの日本人記者たちは昔に比べると教育程度が高く、仕事の能力も向上している」。自力の取材が増えたし「執拗な質問をして、政府高官などから問題発言を引き出す、という評判も獲得している。また、特に貿易問題では、ワシントンの米国報道機関を出し抜くこともしばしばだ」。

  ホワイトハウスの<ウェストウィング>にある記者室に空きが出るのを待機しているのは共同通信だけではない。米国内の報道機関で待機リストに名を連ねているところも多い。
  だが、財務省に椅子とデスクを持つ日本の通信社がないというのはどういうものだろう。―ジョンストン記者の呆れ顔が行間に見える気がする。

  ところが、東京で取材活動に従事する米国人記者たちの状況は、実は、もっと悪いそうだ。椅子やデスクどころか「立っている場所」すら与えられないことがあるのだという。日本人記者クラブだけを相手にした政府発表も多い。<ソニー>が<コロンビア映画>買収を発表したときも、外国人記者たちは記者会見場に入ることができなかった。

  最近の世論調査の結果を見る限り、日米両国民の意識の開きは大きくなっている。双方のジャーナリストの前に立ちはだかる障壁が原因の一つとなっているのかもしれない。必要なニュースが高い壁越しにしか取材できないようでは、正確な報道は難しい。

  米国の新聞に多く見られるようになった日本関係の記事が、記者クラブ制などにしばられてゆがんだものになっているのであるなら、「時代は変わった」と感慨に耽ってばかりはいられないし、一方、デスクもない状態で取材させられた米国政府関係の記事が、稀にとはいえ、真意を捉えそこねて日本に伝えられることがあっても、担当記者の責任とばかりは言えない。
  自由な取材を許す努力を日米双方が直ちに開始する必要がある。